最近マイブームの阿波について、
朝日新聞社の
司馬遼太郎の『街道をゆく 32』から、
京都における阿波の影響についての説。
(引用はじめ)
阿波と京都とのことだが、江戸期・明治期ともに、
両者の接触はすくない。
問題は、室町時代である。
室町時代というと、日本の生活文化の形成期、
あるいは都市がはじまる時期、さらにいえば、日本
最初の大衆の時代に、阿波人は京都における強者で、
支配層をなしていた。
それには、細川氏についてふれねばならない。
という前に、室町幕府における管領という職について
ふれておく必要がある。
室町幕府という京都政権は、ずっとのちの江戸幕府と
ちがい、その行政制度ははなはだ粗い。
足利将軍が超然と上にいて、その下に管領というのがいる。
これが日本国の守護・地頭を掌握し、いっさいの政務を
見るのである。
足利尊氏が京に幕府をひらいた早々は、管領という名は
なく、執事といった。高師直、仁木頼章、細川清氏、斯波
義将といったひとびとが執事になった。やがて執事の名が
消え、1361年以後、管領という呼称になる。
管領細川清氏(1329〜92)が、ほぼその最初のころの人
である。
細川氏は、室町幕府の草わけのころから、阿波と讃岐と
淡路を領地とした。頼之が管領になることができたのも
この三国の富力によるもので、当然ながら阿波兵がひきも
きらずに京上りをし、京の防衛と治安に任じた。
阿波人の京都支配というのは、まことにながい。細川頼之
が管領となった1367年を基点とし、はるかな後年、細川氏
のあとを下克上してその座についた、三好・松永という阿波
豪族まで入れると------つまり織田信長の上洛による
松永久秀の降伏(1568年)を京都の阿波時代最後とすれば
------200年というながさになる。
この間、阿波弁が京都弁にまったく影響をあたえなかったと
考えるほうがむりではあるまいか。
(引用おわり)
「追記」
当事、阿波郡、美馬郡という吉野川の中・上流の地が、たえず
旱魃の災いをうけていた。
これが吉野川のふしぎで、これだけの大河でありながら、流域の
田畑をうるおさない。水流がひくく地を穿って流れているために、
上にあるほとんどの耕地は、天水だけがたよりなのである。
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